<第1の手紙>

呼んでも呼んでも返事のないお母さんをまた呼んでみます

チェ・ヨンチョル

 

 お母さん!なつかしいお母さん、今日は何をしておられますか。

 お母さんと最後にお呼びしてからいつのまにか11年。10年たてば山川も変わるというのに、お母さんにお会いできないまま、10年とさらに1年がすぎて行きます。

 

 寒い冬の日、刃物のように吹きすさぶ冷たい風に凍った手を溶かしながら、私たちのために顔がうつるほど薄い干し菜スープを沸かして、申し訳なさそうに、ぎこちなく笑われながら、少ないけれどたくさん食べなさいとおっしゃった声と薄い服を着ておられたお母さんを思い出します。

 卵も熟すほど蒸すように暑い夏の日には、流れる汗の雫をぬぐう間もなく鍬を入れ、うまごやし、豚草を食べて食糧として補ったお母さんのやせこけているのにむくんで腫れた姿が目に痛く浮かんで来ます。

 

 一人しかいない18才の末娘を食糧がなくて飢えさせて死なせ、さらに29歳になった愛する息子を米がなくて飢えさせて死なせても、亡骸を探すことができなかったお母さん。

 あまりにも恨めしくて娘の墓を爪がはがれて、血が噴き出すほど抱き、剥がし、地面でなくお母さんの心の中に埋めてあげて、一日でお婆さんのようになって私たちの心を痛くされたお母さんが、今度は末の息子の亡骸も探すことができないまま、畑で草をむしっていて倒れ、「私はもう生きるだけ生きたので、お願いだからお前たちだけでも飢えて死なずにしっかり生きなさい。」とおっしゃった姿が目にも痛く浮かんで来ます。

 息子3人、平壌の大学を卒業させ、経書をいつも暗記されていたお母さん、お母さんが立派に思われた息子たちは大きくなって息子の役割をすることができなくて、人民軍に入隊して12年、13年、15年ぶりにやっとなつかしい故郷の家を訪問することができたのに、息子の役目を果たすことができませんでした。

 思う存分に両親の愛を受け、今後の進路を模索しなければならない17才の幼い年齢で人民軍に入隊し、男は戦場で死ぬことを光栄と考えた私と兄たちでした。

 満11年の軍服務期間中、沈む太陽と浮かぶ月を友達と思い、涙を飲みつつ故郷の家とご両親を思い、懐かしがりました。

 

 一年に2度しか書くことができなかった手紙、故郷から手紙が来ると、浮かぶ月明りに、一字一字見て、また見て、見て、また見ていると、涙で前が見えなくなって、これ以上字を読めなくて、心の中でお母さんを呼び、除隊したら私の手で暖かいご飯を一杯作ってさし上げ、孝行の思いをつくしますと、11年間堅く決心していましたが、無情な歳月は5人の息子と1人の娘の切実な願いを成就してはくれませんでした。

 

 一生を仕事だけでお過ごしになったお父さんがなくなられた時にも、無情な歳月が1人の息子もお父さんのそばへ行くことを許してもらえず、5人の息子がだれ1人も亡くなるお父さんのそばをお守りできませんでした。

 

 12年ぶりに故郷の家を、それもわずかの間戻った時、長男を見分けられなくて、「軍隊おじさん」と呼んでおられたお母さん、11年間、いや32年間、お母さんを思うと、今は涙も乾き、悲しみもなくなり、どうして息子たちの胸にこのように血の痣ができるほどになったのか今でも泉の湧くほど涙が出ます。

 

 息子3が平壌で名門大学を卒業し、平壌で妻を娶り、息子、娘の孫を産んで差し上げたのに、(平壌に入る)証明書を発行してもらえなくて、平壌の息子の家も見れなかったお母さん、お父さん。息子たちが本意と違って不孝息子になって骨を削る痛みを持っているのに、一度も親孝行する機会もくださらないで、このように離れてしまったら私たちはどうすればいいのですか。

 何日か前には、平壌の二番目の兄さんがお母さんを切なく呼びながら、お母さんに会うことのできない悲しみを胸に抱いて、恨みが多い中、亡くなったそうです。

 消息のないお母さんを探しながら、昼も夜も涙で歳月を送った、幼い時から人情の厚かった二番目の兄さんは、お母さんの亡骸も探すことができないまま、目も満足に閉じることができず、お父さんのそばに行きました。

 

 今は平壌にいる一番上の兄さんと大韓民国にいる三番目の私のほかに兄弟がいません。息子5人、娘1人だった6兄弟が、今は2兄弟になってしまいました。

 お母さんはどこかで生きておられますね?亡くなられたとは信じていません。

 たとえ草を食べ、気力がつきて倒れられた後11年になって消息がないとしても、もしかして生きておられるのではないかと今も昼も夜も探しに探しています。

 今は大韓民国のふところに抱かれていて、お母さんが生きておられたらいくらでも親孝行することができるのに・・・

 ここでは犬ころも米の飯を食べています。肉も腹がいっぱいでよく食べないといいます。犬ころもあまり食べない肉、いや大韓民国では豚や牛しか食べないトウモロコシご飯でも、一食思い切り召し上がってこの世を離別されたのであればこれほどまで胸が痛くはないのです。

 

 不孝息子は遠い異国の広野で喉が破れるほどお母さんを呼び、今は大韓民国の暖かいふところに抱かれてお母さんをまた呼んでみます。

 70歳になっても還暦のお祝いをしてあげることができず、自分の手で暖かいトウモロコシご飯一杯をさしあげることもできず、いつも心に辛さと悲しみ、骨を削る痛みだけいっぱいの、この息子が、流れる歳月によって50歳になって、餅つき石のような息子を産みましたがお母さんのふところに抱いていただくことができませんね。

 軍服務期間中にお父さんが還暦のお祝いをなされ、2人の兄さんが妻を娶っても故郷の家に行ってみることもできない悲しみ、お父さんがこの世を去られても息子1人もそばを守ることができず、お母さんはどこで祈り、召し上がり、亡くなられたのか、亡骸さえ探す方法のないこの気持ち。

 

 ああ!お母さん、お母さん、この息子の気持ちをご存知ですか、お願いですからちょっと消息を伝えて下さい。

 自慢の多い子供を産んでも、息子たちが遠くにいるのに病気になっても、ご飯一食も得て召し上がることができなかったかわいそうなお母さん、恨み多い世の中を恨まずにゆっくり目を閉じて下さい。

 統一のその日、地の果てまでくまなく探してでもお母さんを探し出します。探して独りで淋しくおられるお父さんのそばに迎えて心を込めて看護します。

 

 今まで尽くすこともできない不孝息子の誠意を尽くして一番上の兄さんとともに亡くなったご両親に、遅ればせながらでも孝行の思いをすべて尽くします。

 その日のために延々60年にもなるこの時点で早く統一になることを祈りながら、私だけでない、2千万の分断の非劇を抱き、生き別れの痛い胸をなだめている私たちの民族の痛みを洗うために私の全てをかけて民族の統一のために最善を尽くします。

 

 統一されるその日、全民族の喜びとともにこの息子が差し上げる、お母さんが生きておられた時に、差しあげることができなかった孝行の思い、お亡くなりになっていても受けて下さい。

 いつかは悲惨にお亡くなりになったお母さんを息子たちのふところに美しく大事に保管して誠意をつくして迎えるその日を描いてみつつ、今日はこれまでにします。

 

 一日も忘れることなく夢の中に描いてみるお母さんの姿を思いながら…

 三番目の息子が謹んで申しあげます。

2007615

ソウルから息子が


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